どうも、KINPONです。
そう、KINPONです、お元気でしょうか。
渋井不動産に漬かって早8年ほど経過いたしました、KINPONです。
本日はそんなKINPONがどうしても書きたかった1棟ビルを紹介しようという記事です。
場所は玉造、大阪の中心よりやや外角低めのいい場所です。
「あ、ええやん」と思ったあなたは選球眼がイイ。このグラウンドに命を賭けてみないか。
ビルにイン、キャッチャーミットはゆったり。
先ほどの写真でも感じましたが、小ぶりなビルのくせに開口部がやけに広い。
開口部とキャッチャーミットは広ければ広い方がいい。
この言葉は野茂選手の名言としても有名ですね。
安心してあなたの理想を投げ込んでください。
角度を変えて見てみましょう。
現状使えるリフトが残置されていますね。2階まで通じていますが、人は乗れません。
階段を兎跳びで駆け抜けてください。
兎跳びで2階に登ってきました。
本物件は鉄骨軽量鉄骨造スレート葺4階建て、現状ジプトーンが貼られ圧迫感を演出している天井ですが、こちらを粉々に砕けば3メートル程度の天高に出会えます。
そう、野村監督と古田捕手が出会ったようにね。
3階に来ました。
3階に来ました。二度もいうことではないですが。
感じて欲しいのはこの開口。
外観を綺麗にするために組まれた足場が邪魔ですが、2メートルはある開口部。
これには馬場正平もびっくり。
肘を怪我しなければ名選手になっていたことでしょう。
馬場正平とは・・・
馬場正平とは全日本プロレスの創始者「ジャイアント馬場」である。元はジャイアンツの投手として入団したが、合宿中お風呂で足を滑らせて肘を強打。投手生命を絶たれるも、力道山と出会い日本プロレスに入団する。ちなみに同期入門は「アントニオ猪木」。
お互いに「ショウちゃん」「カンちゃん」と呼び合うほど仲が良かった(アントニオ猪木/本名 猪木寛至)
馬場正平が振り返るとこんな景色。
リフトがない分すっきりと使えそうですね。
昭和56年に付け足した4階
こちらのビルは昭和52年6月竣工の、福留孝介さんと同い年のビルですが、その後ムネリンこと川崎宗則さんが生まれた昭和56年に4階部分を増築しました。
ウインチがあるところを見ると、過去に何かしらの作業場にしていたのかな?という妄想が広がります。
奥にゴッツめのエアコンが見えますが、あちらも残置物。性能保証はつきませんので悪しからず。
後ほど平面図でポジショニングをご確認いただきたいのですが、給排水とガスは来ています。
対応可能業種も多く「1棟ビルでこんなことがしたかった」というアナタの願望を叶えてくれる人柄の良さを感じます。
栗山監督のようにね。
渋いタイルと成功率の低い洗面器。
おさらいです。
大阪の中心地よりやや東、右バッターなら打ちごろの玉造です。
戦後間も無くは大阪復興の拠点としてブイブイ言わせた土地ですので、運気もすこぶる良し。
住民の人柄も◎。
サービス業はもちろんのこと、事務所やスタジオ使いにも嬉しい路面駐車しやすい全面道路(幅員11メートル)。
ぜひご検討ください。